『SM』って、結局なんだろう?
SMをやったことのある人は、一度はこの質問にぶつかると思う。
だって、不思議でしょう?
Sはまだしも、Mなんて虐められて悦ぶんですもん。
「M」の自分が言うのもなんだけど、正直なぜ嬉々として虐げられているのか、自分自身に問うてもわからない。
苦しめ苦しめられること?
それじゃ虐待のような気もするし。
気持ち良ければいい?
それじゃセックスと変わらない気もするし。
楽しければいい?
うーん、そう言われればそんな気もする。
でも、知らなくてもいいのかもしれない。
いや、理屈で考えても答えなんて見つからないし、そもそも無いのかもしれない。
そんなことをあれこれ考えながら、今日も自身のSMブログのチェックをする。
〝あっ、○○さんからコメントきてる〟
〝また会えるんだ〟
〝この間のプレイ、楽しかったなぁ〟
様々なことを振り返ったり夢想したりしながら、コメントに一つ一つ大切に丁寧にコメントを返していく。
御主人様方から頂くコメントは、それはバラエティにとんでおり、その造詣の深さに思わずうなってしまったり、とってもフランクな文章に思わず笑みがこぼれたり、なんとなく切ない気持ちになったり。まさにその内容は様々だ。
ふいに、一つのコメントに目が止まった。
〝誰だろう?〟
うん。多分知らない人。
私とプレイしたことのない人。
きっとお店にも来ていない人だろう。
不思議と、そういうことは直感でわかる。
意外と、こういう方からコメントを頂くことはよくある。
たまたま私のブログが目に止まって、なんとなく単発でコメントをくれた。
そんな、行きずりのようなコメント。
〝あっ•••••!〟
それは突然、天から降ってきた啓示のようなもので。
〝見つけた〟
〝私、答え、見つけちゃった〟
そのコメントによるとーー
〝キミのブログを読んでいるうちに、一つの答えに辿り着いた。
SMは『究極の受動』なんだと〟
『究極の受動』。
私には、その言葉が、驚くほどすんなりと、こう、カラダの中心に真っ直ぐ据えられた部分に、ストンと落ちていった。
そうか。そうだ。
一生かかっても見つからないと思っていた「答え」に巡り逢えて、私はとても幸せな気持ちになった。
キレイも、キタナイも、興味の無い人からするとヘンタイと罵られるような事も、幼い頃の体験のトラウマのような事も、もしかしたら独り善がりのエゴかもしれない事までーー。
全部とはいわなくとも。
相手を受け容れないと、受け入れられない。直視出来ない。
だから、苦しみが、ただの苦しみではなくなる。
傷付いてしまっても、そこに意味があるから、無意味ではないから、ただの痛々しい傷痕ではなくなる。
だから見せる。全部。
それはとても、勇気のいること。
総ての人に当てはまらないのは、もちろんわかっている。
答えは人それぞれなのも、もちろんわかっている。
私の「答え」を押し付けるつもりなんて、全くない。
皆、それぞれの答えを持っていて。それぞれの答えを探してる。
でも、少なくとも、私にとっての一なる「答え」はここにある。